コロブチカ
テトリス。次から次へと否応なく堕ちてくるブロックたち。気づいたら数時間経っていて呆然とする、ということが昔よくあった。実は最近もあった。異界に迷い込み、現世に戻ったら世界が荒廃していた浦島のような心境になる。テトリス恐るべし。
ところで、食器洗いが好きではない。できるだけ洗い物を減らすため、食器自体を極力少なくしたり調理器具も減らしたり工夫はしているが、結局使うものは使うので、毎回オールスター食器祭になるだけである。シンクを見るたび、面倒くさいメーターがひゅーんと振り切れる。しかし、洗わなければ次に使えない。
仕方なく洗いはじめたのだが、頭の中でテトリスのBGMが回っている。それがいつの間にか鼻歌になっていた。スポンジに洗剤をひと押し、お皿をスポンジで磨く、水でブッシャアーッとすすぐ。カゴに立てかけると、「シャキーン」とご褒美の音がして、イメージのブロックが消滅した……。「シャキーン」「シャキーン」と無心でイメージのブロックを崩していると、シンクの中はすっかりキレイになっていた。テトリス恐るべし。
テトリスのBGMは『コロブチカ』というロシア民謡らしい。YouTubeでプロ(ロシア語)が歌うオーケストラ・合唱付きのバージョンを聴いてみたら、ものっすごく格好良かった。もはや堕ちてくるブロックはどこにもない。
食器も洗ったし、シンクは清々しく澄み渡っている。それなのに頭の中ではテトリス版の『コロブチカ』が無限リピートされている。なんだかせわしない。お皿洗ったのに。
逃避と妄想
12色くらいの色鉛筆を見ていると、もやもやと鉛筆たちの人間関係的なものを想像したくなる。試しにケースから出してざらざらと机の上に転がしてみるとよい。ちっちゃくなった赤い鉛筆にはやはり主人公的な華がある。藍色とオレンジがひっついていて、おっと思う。白の聖性と黒の孤高感がなんだか冒険ものっぽくてニヤニヤしてしまう。
いわゆる戦隊ものは大抵5色組だと思うが、脇役にも色をつけると妄想もはかどるというものだ。しかも鉛筆なのでよく転がる。あっちでひっついたり、こっちで離れたり。個人的に藍色が「ラスボス」でオレンジは「親友」ポジションだ。黄色は「甥っ子」、緑が「商店街の(なんらかの店舗の)おじさん」となる。なお、ラスボスはジョーカー的な扱いとなるため、他の色が兼ねるということもあり得る。
……などと、まとまらないことをボーッと考えている。もっと生産性のあることを考えればいいのに。どうもやる気が起こらず、「ひとくちヨーグレットアイス(ラムネ入り!美味しい!)」をポイポイ摘まんでいたら一日が終わりそうだ。
あるいはお風呂場で、シャンプー、コンディショナー、ボディソープなどのボトルを適当にまとめて置いてみる。これがなぜか、ちょっと気取ったバンドみたいに見えてくるから不思議だ。明後日の方を向いて背中合わせになっているシャンプー&コンディショナーがギターとベース、真ん中で斜めに立っている少し小柄なボディソープがボーカルだな……ものすごくしょうもない。
思うにこれは現実逃避なのである。生産的なことを考えたくないからうだうだしているだけなのである。しかし、そんな日もあるのでしかたない。生産的なことは後日に譲ろう。
もやもやとしょうもないことを考えていると、常に手がアイスに伸びるようだ。いかんなあ、いかんなあ、と思っていたら一日が終わった。
情緒とカロリー
スーパーのレジの手前に平台がある。
列について会計を待っていると、ちょいちょい目に入る。普段は見ない振りをしてやり過ごすけれど、今日はたまたま目を奪われてしまった。心が持って行かれてしまった。
心赴くままに「大人のみたらし団子」を買った。商品ラベルに「旨」と書かれてある。おいしそうでうれしい。
家に帰ってさっそく食べようとコーヒーをいれた。団子でもやっぱりコーヒーが飲みたい。わくわくしながら団子とコーヒーをテーブルにセッティングし、さてと改めてパッケージを見る。「お供えにもどうぞ」というシールが貼られている。はっとして思わず居住まいを正した。
お盆に思いを馳せることもなく、おやつとしてぺろりと食べてしまうところであった。
というわけで、じっと団子を見つめながらしばしお盆に思いを馳せる。昔はお盆休みがものすごく特別だったこと。夏の匂いがけっこう好きだったこと。意味もなく楽しくて、お盆が過ぎると妙に寂しくなったこと。スイカ食べたいなということ。
そして団子を食べる。旨い。しみじみうれしい。
お団子のおいしさにはケーキやチョコレートにはない情緒がある。かりんとう的な郷愁がある。おいしいなあと思いながら三本食べた。私は今、情緒と郷愁を食べている。しっかりカロリーはある。
ご近所さんの家々の駐車スペースに、普段見ないナンバーの車が駐められていた。ああ、お盆だなあと思う。この記憶もまた郷愁になるのだろう。とろりとした湿気の中散歩に出掛けた。お団子三本のカロリーを消費しなければならない。
また少しだけ読書
『雨月物語』再び。
今日は石川淳の現代語訳、『新釈雨月物語/新釈春雨物語』を読む。原文に忠実な現代語訳とは異なり、構成が変わっていたり脚色があったりなので、読みくらべるのも面白いと思う。
さて、ちびちびと摘まむように読んだ。「うわあ、面白いな!」と思ったのは『仏法僧』である。実はこの作品、原文や他の現代語訳で読んだときはたいして印象に残らず、よくある山中で幽霊に出会い、夜明け方ほうほうの体で山を降りるタイプの怪談だなと決めつけていた。実際話の流れはそのとおりで、諸国巡りの旅を老後の楽しみとする夢然が息子と高野山に参詣したところ、寺に宿を借りること許されず、霊廟の前で夜明かしをこころみるものの、そこに現れた関白豊臣秀次とその一行(修羅道に堕ちた存在)になんやかんやと揶揄われ――というか脅されて気を失い、明け方転がるように山を降りる話だ。シンプルな怪談、なのだがこれが妙に怖い。
夢然は高野山を「ここは聖域、清浄の地。だからこの野宿は善い野宿」と信じており、仏法僧(仏法、仏法と鳴く鳥)の声を聞いて感激する。ところがそこに、わけのわからない怪しい御一行が現れ酒宴を始め、夢然らを修羅の巷に引っ立てて行こうなどと言うのだ。聖域のはずのお山は夢然を守りも助けもしない。彼らが助かったのは、たまたま秀次に仕える老臣が仏心?を出してくれたからにすぎない。
山を降りた夢然は、やれ酷い目にあったと療養に努めて落ち着きを取り戻す。山中で会った鬼の記憶は薄れ、そろそろと出歩きたい気分のままに三条の橋の袂までやってきた夢然は、仏法僧の鳴き声を聞く。それが引き金になったかのように、行き交う人々がみな血にまみれ争う悪鬼のような姿に変じるさまが、夢然の眼前にまざまざと浮かび、物語は終わる。
聖域の象徴のようであった仏法僧が不吉な鳥に変わり、自分にとって最も安全であるべき地元までが修羅の巷のように見えだすこのラストが、なんだか無性に怖かった。ちなみに、原文はかなりあっさりした終わり方で印象はだいぶ違う。好みの問題はあるけれど、自分はやっぱり怖がりたいたちなのだなと、ゾクゾクしながら思った。
ちょっとだけ読書
暑いので涼しい物語が読みたい。体調がへろへろ気味なので、ごっつい小説は避けたい。すうっと読み終え、すうっと涼しくなりたい。そんな都合の良い本がどこかにないだろうか。
というわけで、『雨月物語』(上田秋成/現代語訳版)を引っ張り出してきた。全九編の短編集、それぞれの作品もかなり短い。よし、これにしようと読み始めたら、冒頭の『白峯』からドスンと嵌まってしまった。すうっと読み終えるはずだったのに、おかしい。とにかく崇徳院と西行の論戦がスリリングでむしろ熱くなったのだが。本当におかしい。
ふらふらと名所遊山の末、崇徳院配流の地である白峯にやってきた西行。そこで院(すでに幽世の存在)との対面となるのだが、不遇な運命に共感してともに泣き慰めるかと思いきや、ものすごい勢いで正論をぶちかまして早く成仏なさいと迫り、しまいには院を怒らせる。「論破しなきゃ!」という強い意志を感じる。これには院もびっくりなのではなかろうか。私はびっくりした。
双方の主張は平行線のまま、とうとう西行は「言ってもしょうがない」とばかり、ちんと黙する。そして院は魔王と化し、夢のように消えてゆくのであった――。
何度か読んでいる話なのに、覚えていた内容とずいぶんと違うような。あれ、こんな話だっけ?不思議すぎてちっとも先に進めない。全然すうっとならない。
子どものころ読んだきりで完全に遠ざかっていたような本を、新たな気持ちで読み直してみたら面白いかもしれない。全然違う内容で記憶しているということもあるだろうなと思う。
それにしても暑い。ごつくなく、すうっと読める涼しい本はないだろうか。『雨月物語』はいったん棚に戻した。
むしがどうしても苦手
桜の樹の下にはモゾッとした虫がころがっている。
先日ふらふらと外を歩いていたら、視線の先に緑色のモゾッとしたものがあって、はっとした(虫が苦手)。
暑いから日陰歩くよねー、となにも考えずに駆け込んだ遊歩道だが、そういえばこの並木は桜の樹なのだった。よくよく見れば葉っぱにたくさん穴が空いている。何者かに食べられたものと思われる。
食べた者がこの樹に住まっているということなのだろう。そして樹の下に落っこちているということは。
慌てて並木の下から避難した。ざわっと風が吹き、枝がわっさわさ揺れる。ひいぃと身が竦む。落ちてきたらどうしよう。桜の樹が怖い所以である。
危ないところだったなと反対側の歩道から遊歩道の並木を眺めた。実に良い日陰だ。それなのに、あれが怖くて歩けない。暑くてかなしい。
あんまりかなしかったものだから、つい道をそれてドラッグストアで箱入りの氷菓を買ってしまった。夢のようなソーダ味の棒アイスだ。ガリガリというより、サクサクとした儚い感触の夏のお菓子である。キンキンに冷えた部屋で食べたらすっかりかなしさはなくなった。もう一本食べたい。箱入りアイスはたくさん入っているのが嬉しいけれど、油断すると一気に半分くらい減ってしまう。儚い。
元気になったところで、あの日陰を安全に歩く方法を考えてみた。日傘をさせば、万が一あれが落ちてきたとしてもダメージは少ない。しかし、日傘の上のあれをどうやって取り除けばよいのだろう。それ以前に、傘の上に「ぽとり」と重さを感じた時点で、「ぎゃあぁぁ」と傘をぶん回してしまう可能性も十分にある。周りに人がいたら大迷惑だろうなあと思う。
どうあっても共存は難しいので、結局また遊歩道の日陰を避けて箱入りアイスを買うことになるのだろう。
散歩
うっかりしていたら7月が終わっていた。魔術的な暑さに頭が真っ白になる。
この一ヶ月を振り返ると、ほとんど水分の補給しかしていない気がする。昔はもっと夏が楽しかったのに。寂しいけれど昔を懐かしんでいてもますますやる気が失せる一方なので、思い切って外に歩きに出ることにした。
家の近所の川に向かう。よい気候の時期だと、散歩やジョギングの老若男女で賑わうキラキラな河川敷である。夕方五時、そろそろ液体化しそうな空気がみっちりと辺りを満たし、土手から上流下流を眺め回しても誰もいない。河川敷の芝生は午後の日差しのせいか黄色く毛羽立ち、土手沿いに植えられた桜の木の葉はしばらく見ないあいだに固そうな深緑に変貌していた。川の水がとても少ない。川床の砂利が広い範囲に剥き出しになり、葦の茂みがこんもりと島のようになっていて、その隙間をチョロチョロと水が流れる。
川だってこんなに暑そうなのだから、自分が暑くてだらけてしまうのは仕方ない、と思った。
それにしても夏がこんなに苦行になったのはいつ頃からだったろう。夏を最後に楽しんだのがいつだったのか思い出そうとしても思い出せないのだった。